舞 鶴 百 撰

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中心市街地周辺
29 臨済宗曹渓山
 大泉禅寺


 禅宗臨済妙心寺派の寺
慶弔二年(一五九七)、当時丹後の領主細川忠興公が、美濃国(現岐阜県)関の梅竜寺八世大徹法 源禅師の高弟「琢堂宗圭大和尚」に開山に請じて当寺を創建。 
 その後、当寺第二世別源大和尚 は、宮津の国清寺を開山及び文殊の智恩寺を中興開山。第三世大淵大和尚は、細川家から熊本 に招かれ、細川家菩提寺の泰勝寺を開山、細川家と関係の深い宮本武蔵の葬儀を執り行いまし た。
  この寺には、関ヶ原の戦いで忠興公が、身につけその霊力を借りたとされる馬頭観音や細川家 の紋で「九曜紋」の入った瓦をもつ建物、慶長五年(一六〇〇)の幽斎公の古今伝授で有名な田 辺籠城戦を描いた「田辺籠城図」など細川家に因むものの他、開山琢堂大和尚の死後、時の天 皇から「大本真寂禅師」という呼び名を贈られた御綸脂(ごりんし)、黄檗(おうばく)宗開祖・ 隠元の真筆、谷文晁の絵など古を今に伝えています。
30 大龍山 
 東山禅寺


 禅宗臨済妙心寺派の寺。
 一三四五年、佐武ヶ嶽(さぶがたけ)城主であった島津下野守が、城の鬼門を鎮めるために、 この地に寺を開き、のち、中世城主達に関ったこの寺は、館の趣を時とともに変え、京極氏の 時代には、菩提寺となって復興し、牧野氏時代には、三代英成公の遺体を葬り、立派な墓所が 設けられました。
 この寺の最大の文化財は、本堂そのものといえます。「しゃちほこ」が棟の両端を飾ってい る本堂は、城郭としての意味を持ち、禅寺方丈のつづきに手のこんだ重厚さを示す「城主の間 」があり、有事の際には支城に使える機能もあったようです。
 他にも授戒会を描いた珍しい明治期の絵画や、幕末の高名な禅僧儀山善来の筆になる「護国」 の扁額などもあります。
31 三柱神社


 境内には三つの社殿が東に面して並んでいる。真ん中が「三柱神社」向かって左(南)が「粟 島さん」右(北)が「稲荷さん」。江戸末期の加佐郡旧事記に「三宝荒神 村の西田ノ中森ノ 内ニ有リ」とあり、明治になってから「三柱神社」と改名。「三柱神社」の祭神は、火産霊神 、奥津比古神、奥津比売神の三柱。
 粟島社のほこらの中にある天保十一年(一八四〇)の棟札に「粟島」ではなく「淡島明神」と 書かれている。「淡島様」はイザナギ、アザナミ両神の国生みの神話では、一番目に生まれた 「水蛭子」、二番目に生まれた「淡島」。この二つの生命は流産又は死産児の霊で、現在でも 水子地蔵尊が信仰を集めているように、江戸時代には「淡島様」として女性の信仰を集めてい た。
32 笠水神社


 一般には「かさみず」と呼ばれていますが丹後風土記には「宇介美都(うけみず)」の訓が振ら れています。又、真清水の湧くところで「真名井」の名もあります。昔は池内川、真倉川、高 野川がこの辺りで合流し、すぐ近くまで海が迫っていたようです。
 祭神も海に関係した笠水彦神と笠水姫神で、先史時代に丹後一円で勢力を誇った海浜族の海部 直(あまべのあたい)の祖神と言われ古代から祀られていたいようです。
 元亀三年(一五七二) 写の神名帳にこの社の名があり、又、社の所蔵の鰐口には「天正六年(一五七八)三月十九日 笠水大明神」と陽鋳されています。現社殿は棟札から天保八年(一八三七)に造営されたと推 測されています。
 明治二年廃藩置県の時、新行政区の藩名として「舞鶴」と共に、「笠水」も候補に挙がった程 、藩の信仰が厚く、藩を代表する社であったことを示しています。
33 雨引神社と
   揚松明

(あげたいまつ)


 祭神 水分神(みくまりのかみ)、別名を蛇神様
 由緒 農耕水利を司る神
 古代の祖先は、農耕を主とし水は、なくてはならないものであり、旱天を憂い水分の神を氏神 とし奉り、豊作を祈ったのが始まりである。又、弘治二年(一五五六年)一色氏の遺臣で女布 の郷士、森脇宗坡が、娘を飲み込んだ大蛇を退治し、雨引神社に合祀したことから別名「蛇神 様」ともいう。(頭部は、ここ雨引神社に、腹部は野村寺に、尾部は高野由里に祭ってある。 )
 雨乞いのため火を焚く習慣は、以前から行われていたが、この大蛇を合祀するようになってか ら揚松明(高さ五丈三尺(十六米)の大松明に火のついた小松明を投げ入れ年の豊凶を占う) という神事が今に継承され、現在は、八月十四日夜、行われている。(府登録文化財)

どどんどろつくどんどこどん 
まつりばやしは太鼓から
村のいなせな若い衆
やぐらねり込むどろつくどん(蛇神様雑記から)
34 曹洞宗金剛山 
 瑠璃寺

  吉田のしだれ桜

 この吉田の地に、細川幽斎と関わった二人の人物がいます。
一人は、公卿中院通勝。天正一〇年から慶長四年(田辺篭城戦前年)の十九年間、吉田湾に浮かぶ年取島に、左遷させられますが、細川幽斎がこの島に小庵を結んで住まわせます。慶長五年(一六〇〇)、田辺城篭城時、朝廷の交渉人として働き、戦終結時には、和議勅使の一人となっています。
もう一人は、大渓良澤大和尚。田辺篭城戦に際し、桂林寺の住僧であった大渓和尚は、袈裟を旗印にかかげて、城内に入り、細川幽斎を助けて戦います。この後、この大渓和尚が、慶長十四年(一六〇九)にこの瑠璃寺を開山します。
この寺の「吉田のしだれ桜」は、舞鶴市の天然記念物に指定されています。又この桜は、幽斎の生まれた吉田山の桜を京から移したのではないかとも言われています。

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